宿場探訪サイクリング

主に東日本の街道沿いの宿場を探訪し、浮世絵に描かれた地点探しもしています。ロードバイクでトロトロとうろついて写真を撮っています。

佐倉街道の変遷と考察・感想(1)

 臼井藩が臼井城(1114?築城 - 1813天守焼失 – 1604臼井藩廃藩・廃城 – 撤去年不明)と江戸との行き来に使用していたのが後の佐倉街道である。臼井城廃城後、佐倉藩の佐倉城(1610築城 - 1813天守焼失 – 1873撤去・兵営設置)に役目を引き継いだ。


 江戸時代初期にこの街道を酒々井までを佐倉街道と幕府は公式に命名した。
水戸街道新宿追分から市川宿―八幡宿―船橋宿―大和田宿―臼井宿―佐倉城(+酒々井宿)のコースになるが、さらに支線として成田(寺台宿)も存在する。本線は市川宿と八幡宿はどちらか一方の説や、合体させる説もある。この2つの宿は余りに近すぎる。市川宿を間の宿として関所や渡船運休で足止めされた者が泊れる宿と考えるか、西の新宿と東の船橋宿を距離的みると、中間にある市川のほうが八幡より相応しいが、大目川(現江戸川)の氾濫から市川宿が次第に八幡方面に移動していったのかと考えるのはおかしいだろうか。
 総武線快速電車は都営地下鉄乗換えができる本八幡駅を通過して市川駅に停車する。敷地だけの問題だったのだろうか。市川は歴史的に価値がある場所なのかもしれない。
 

 その後、佐倉藩により寒川湊(現千葉港)と佐倉城を結ぶ街道が整備され、佐倉街道と名づけられた。どちらも佐倉街道。いつのことか分からないが、両者を区別するために水戸街道新宿を起点とする道を水戸佐倉街道、千葉港を基点とする道を千葉佐倉街道と呼んだそうだ。


 さらに、成田山新勝寺詣りが盛んになり、1800年始めには新宿追分からの佐倉街道+酒々井宿+新勝寺までを成田街道あるいは成田道と呼ぶようになった。一方、寒川湊からも千葉寺参拝の後新勝寺へのコースも賑わったため、こちらの千葉佐倉街道は成田道あるいは成田千葉寺通と呼ぶようになった。佐倉の名称は消え、成田にとって代わられた。


 東京都では葛飾区と江戸川区を通るが、現在特に葛飾区の地元では佐倉道や旧佐倉街道の名称で親しまれており、成田の“な”の字も出てこないし聞きもしなかった。
地元の人と話をすると、頻繁に“柴又”と“さくらかいどう”の名前が出てきた。そう言えば、映画の寅さんの妹の名前が“さくら”。“さくら”という響きに心地良さを感じているのかもしれない。地元の人が“さくら”という言葉に親しみを感じ、プライドを持っていることを、わずかばりだが感じ取れた。
 江戸川区民も歴史ある道を“親水さくらかいどう”として綺麗な道を保ち大切にしている様子が伺えた。こちらも成田の名は出てこない。


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